「座して死を待つ」?  


昨日は秋休みでした。
参議院の国会答弁をラジオで聞きながら、納屋ワークで木工カヤックを楽しんでいました。

時々入るNHKアナウンサーの合の手が、いかにもプロパガンダ放送ぽかったのですが、
根本的に個別的自衛権と集団的自衛権は場合によってはよく似た理由付けは出来るだろと思います。あえて今、集団的自衛権が必要なのか?がポイントになります。

国会答弁を聞く限り、今回の集団的自衛権では、現実的には機雷の掃海はしないようです。
また、外国で日本が人質となった場合の救助にも行けないようです。
じゃ何のため?と単純に思うのですが、

アベちゃんは「座して死を待つべきではない」と何度も答弁中で引用しました。
意味的には「武器を取って戦うことをせず、ただ手をこまねいて滅んでいこうとする態度や姿勢」となるでしょうか?

つまり敵が攻めてきたときに戦うこともせず、やられるがままただじっと死を待つという意味ですが、この「敵が攻めてきたとき」という個所が非常に微妙なポイントとなります。

ゲーム的思考ルーチンでは「殴られたら殴り返す」のか「殴られるのが分かっているのなら、殴られる前に反撃する」のか「殴られたら逃げ出す」あるいは「殴られる前に逃げ出す」となります。

米軍のコスト削減の一端を日本がカバーするための法案ですが、現実はもっと進行しているようで、既に日本の自衛隊の指揮権命令機関は米軍基地内にあって米軍と一体的な行動を行っているようです。その中で日本の役割は米軍の補給部隊となるわけです。

危惧するのは日本が単独で「行くか行かないか?」を判断するのではなく、米軍指揮下の一部隊として行動する可能性があるというところです。
実質は既にそうなろうとしていて、それを裏裏付ける法的根拠が必要なため安保法を急ぐわけです。


もとより人も生物である以上「座して死を待つ」なんてことは生物的に絶対にあり得ません。
勝てる負けるかは別問題ですが、自己防衛として何らかの抵抗はするのは当たり前です。
これは生理反応です。

しかし、米軍指揮下の元、一部隊として行動するのかどうかは別問題でしょう。
日本国として独立国家なのか?も疑わしい気がしてきました。

パラサイトとして生きるのか、パラサイトされる側なのか?
その割合が微妙なら、個としての存在を放棄してもいいかもしれません。
アメリカ日本州の日は近いようです。


そんなことで「座して死を待つ」わけじゃないのですが、
あまりにも秋風が気持ち良くて、椅子に座って寝落ちしていました。
よってちっとも作業は進まないのです。

既に設計書なんて完全無視な状態です。
いきあたりばったり、作りたいものを作り、磨きたいところを無駄に磨いています。
かなり別物になりそうな予感がします。